これまでとこれからについて。発表会vol.2のお知らせ。

 おかげさまで散策者第2回公演『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』が無事終演しました。これまで、「書きことば」をいかにして読むか、という問題設定のもと、発表会vol.1の『白む』から、今回の日記小説『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』へと進んでまいりました。そして、これからまたすぐに発表会vol.2に向かっていくわけですが、そのための指針を明確にするためにも、ひとまずここまでで得られた成果、深めてきた問いについてまとめておこうということで、この文章を書いています。発表会vol.2についての詳細も最後に記載しますので、ぜひ最後までお目を通していただけたらと思います。

 

 1. これまでの活動を振り返って ーー「読み」について考える
 

 これまで半年間、散策者は「テキストをどう読むか」ということを演技における最重要課題として据えてきました。第1回公演の際は、テキストを(その通りに読まねばならない)権力構造として捉え、しかしそれに逆らわず、むしろ身をまかせるようにして読む、ということを一つの理想に掲げました。さらにいうと、「読む」主体(の身体)があくまで「読み」という現象が生起する<場>として機能するように読む、ということです。当時はこれを「中動態」の読み、演技という風にいって、稽古場で共有していました。

 ちなみに、このとき扱ったテキストは口語体のモノローグで、どちらかというと、たんに読むことだけでも<演技>が成立しやすい(ように見える)ということがあり、そこまで身体に何らかのルールや工作を課すことなしに上演しました。ただ、語る身体における身体性の脆弱さについては否応なく考えさせられました。それはつまり、「いただきます」と今ここで言った人物が、次のタイミングに両手を合わせ、何かを食べ始めるという身振りを行うことは、原則的に<過不足のない>演技ということになるが、「昨日おにぎりを食べた」と語る人物が、おにぎりを食べる身振りをしたり、関係のない踊りを始めることは、原則的に<過剰な>演技といえるということです。一方で、棒立ち状態で「昨日おにぎりを食べた」と言う演技をするのは、舞台のたっぱに対して<不足だ>と往々にして言われるでしょう。語る身体の身体性が脆弱であるとは、そういうことだと私は考えています。つまり、舞台上で語るときの身体というのは、原則的に何の制約も受けない代わりに、<過剰である>か<不足である>ことを迫られるということです。何をしてもいいというのは、往々にして不自由を意味します。

 こういったことを受け、「読み」の延長である「語り」、とりわけ「語る身体」というのも一つ大きな課題でした。いかにして<過不足なく>語るか、振り付けられるか。それはそもそも可能なのか。

 こうした課題を引き継ぐように、私たちは新聞家の『白む』というテキストに挑戦することになりました。前回のテキストと同様モノローグで劇が進行していくのですが、大きく違ったのは、前回のテキストが<話し言葉>として書かれていたのに対し、『白む』が徹底して<書き言葉>として書かれていたことです。

 書き言葉を上演するときに、必ずと言っていいほど直面する最も厄介な問題は、「黙読したほうが面白い」問題です。「書き言葉」なのに、なぜそれを「話す」のか。こうした疑問が自然に湧いてくることは、私たちがいかに演劇という<文化>に染まっているかを暴いているかのようです。今の私にとって、「話し言葉」を「書く」という演劇(戯曲、上演台本)の<文化>だって、それと同じくらいおかしなことなのです。「書き言葉を話す」ことが上演という場で起こりうる違和感だとしたら、「話し言葉を書く」ことは作家の机の上で起こるべき違和感のはずなのですが、後者は観客から不透明な場所であるがゆえに、あまり批判されることがないのだと思います。(他にも、読者は作家という権威を理解しなければならないという<文化>のせいもあるかもしれません。)

 少し話が逸れました。<演劇文化>への文句はさておいて、ともかく当面の課題としては、いかにして「書き言葉を話す」というずれに向き合うかということになります。『白む』の稽古場では、出てくる単語を記号的な模倣行為で表象してみたり、言葉のイメージを身振りに変換して出力してみたり、いろいろなことを試したのですが、結局なにをやっても「黙読したほうが面白い」という状況から抜け出すことができませんでした。そうして試行錯誤していった結果、どんどん新聞家のやり方に近づいていくことになりました。つまり、模倣的な演技を切り捨て、ただ口を使って語るということに専念するということ。それはいわば、「書き言葉を話す」という違和感を逆手にとった革命的な方法で、なるべくノイズを排して「書き言葉を話す」という異常事態をそのまま見せることで、観客はそのこと自体を各々のやり方で考え、受け止めるようになるという、翻って演劇的な方法だったわけです。しかし私たちは、「新聞家ってやっぱりすごいね」と言いつつ、そこで立ち止まって終わるわけにはいかなかったので、語り手1人と動き手3人に分割し、語り手はたんに書き言葉を話し、動き手はその聞こえと動き手同士のグルーブに従って動くということを試しました。しかし、そのときは演者の技術不足とあえて選択した演出家不在という状況が、悪い方向に傾き、見た目にはただカオスな空間が生まれるいうだけに終わってしまいました。

 そうした反省を踏まえての、第2回公演だったわけです。

 

nakawo546.hatenablog.com

 

このブログに書いたように、「書き言葉を話す」ということに対して、<理想的な花嫁>のように話すという作戦をとることにしたのです。該当箇所だけ引用します。

 

たとえば、結婚式の披露宴で両親に宛てた手紙を読む花嫁のことを、一つの理想モデルとして思い描いてみる。手紙は、特定の人物への、特別な思いが綴られた書きものだから、その書きことばには<声>が滲んでいる。また、あらかじめ刻み込まれた文字をそのままに読むため、花嫁の声には<書きことば>が入り込み、それが読みをぎこちなくする。手紙を読んでいる花嫁は、「流暢に」「うまく」読むという制約から逃れ、ただ文字通りに読むという制約のみに忠誠を尽くしつつ、自由にテクストとかかわる。「ありがとう」という言葉を、気持ちを込めて言いたければ、<まるで今ここで紡ぎだした言葉であるかのように>発話するだろうし、照れくさいと思えば、<そこにあらかじめ書かれた、今こことは無関係のもの>として発話するだろう。このようにして、<理想的な花嫁>は、役と重なったり役から外れたりする営みを自由に遊ぶ。

 

 たんに「書き言葉を話す」という異常事態そのものを楽しむのでなければ、どのようにして「書き言葉を話す」を楽しめるだろうか、と考えた先の結論がこれだったのです。つまり、テキスト(他者)と読み手(私)との間をたゆたうということ、役と重なったり外れたりする営みを自由に遊ぶこと。思えば、これも中動態といっていい「読み」の状態でしょう。手紙を発話する花嫁は、手紙を書いた私であり、手紙を書いた私でない誰かでもあるのですから。

 今回の『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』は、<僕>という一人称の日記小説を原則的にそのまま読むという作品だったため、役者たちは「<僕>にはなれないが、<僕>にならないということもできない」という状況のただ中にいたことになります。このことは、他の登場人物(J、堀田、リリコ、トミーなど)にも言えます。<僕>を今担っていることになっている役者が、「堀田という男は、」と語るときに見ている対象は、「堀田ではないが、堀田でなくもない」ことになります。そうなってくると、舞台とは役者たちの自己同一性が常に脅かされる場であることになります。そしてそこにこそ、演技という営みのエロチシズムが潜んでいるように、今の私には思えるのです。だから今深めたい問いは「役と重なる / 役から外れる」です。まるで標語のような形式の問いですが、当面はこれに向き合っていけたらと考えています。

 

 補足ですが、以前このようなツイートをしていました。まさに、「役と重なる / 役から外れる」を考えるきっかけとなった出来事について述べたものです。

 

 

2. 次回、発表会vol.2について ーー「役と重なる / 役から外れる」の実践と観察

 

 「書き言葉を読む」ということはこれからもしばらく続けていこうと考えています。具体的には、第2回公演で作を務めた新居進之介が、まだまだ散策者で書きたいと言ってくれていて、こちらとしてもあそこまで上演の都合を考えずに全力のエクリチュールをぶつけてくる厄介な作家がいることはありがたいことなので、彼と喧嘩別れするまではタッグを組んでやっていこうと思います。 ただ次の発表会は、小説などではなく、ちゃんと(?)戯曲を読もうと思っています。太田省吾です。一番大きな理由は、役者たちがそろそろ普通の芝居(対話とか)をやらせろと言ってきていることと、私自身もそういうのをやりたいと思うようになってきたことです。他にも、太田省吾は、「書く」ということにとても誠実に向き合ってきた劇作家の一人(らしい)ですし、引用(盗用?)をよくしていたり、女言葉を躊躇なく使ったり、あくまでエクリチュールとして戯曲を書いているという印象があるので、その点もいいなと思っています。

  そういうわけで、太田省吾のテキストを使って、「役と重なる / 役から外れる」について考えるのが主な目的となるわけですが、もう一つ企みがあります。それは、作品を単体でなく、プロセスとして享受するやり方を、私たちも一観客として体験してみようということです。最近、創作をやるにつれ、「何のためにこんなことをやっているんだろう」と感じてしまうことが多々あるのですが、その度にこの言葉を思い出します。

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尾形亀之助詩集 裏表紙

 

「自分自身に即して生きる」。実感を伴って理解することはできていない言葉なのですが、なぜかすごく惹かれ、憧れる言葉でもあるのです。そして、何となくですが、「自分自身に即して生きる」ということが、多くの制作者にとって、作品創作の大きなモチベーションの一つになっているような気もするのです。 であれば、一人の人間の作品群をなるべく丸ごと味わってみることは、とても良い作品鑑賞のあり方のように思えるのです。もちろんこれは、特定の作家を信仰することとは無関係です。そうでなく、あえて一人の人間というものにこだわってみること。それを、人生を老いていく準備として、今やってみたいと思うのです。

 

というわけで、発表会vol.2の内容はざっとこんな感じです。

 

目的:「役と重なる / 役から外れる」の実践と観察、プロセスとしての作品受容。

対象:日本語を音読できる方なら、誰でも歓迎です。各回のコピー代だけ頂く予定です。

読む作品(予定):『乗合自動車の上の九つの情景』『小町風伝』『裸足のフーガ』『死の薔薇 プラスチックローズ』『棲家』『更地』『ヤジルシ』(あくまで予定なので、リクエストなどあればお応えします。選んだ基準としては、なるべく初期から後期までバランスよくというのと、再演を重ねたらしいものを優先的に。沈黙劇の作品は除きました。)

 

初回:4月6日(土)『乗合自動車の上の九つの情景』

   場所 東京大学駒場キャンパスキャンパスプラザ第6音練

   時間 13:00集合(約3時間の予定)

   流れ 一台詞ずつ全員で回し読み→役を当てて読む→空間を使って読む(上手に読む、ということはしません。技術を高めることを目的としているわけではないので、安心してご参加ください。)


参加ご希望の方は、劇団員に一声かけていただくか、the.sansakusya@gmail.com宛に「発表会参加希望」の件名で、1. 氏名 2. 人数 3. 遅刻早退される場合はその旨をお書きになって、メールをお送りください。

 

二回目以降はツイッター(@the_Sansakusya) でお知らせします。今のところ、毎週か2週に一回ペースの予定です。