次回公演に向けて 1. 痕跡をみつめる詩人の眼

散策者は、今月(3月)23日から25日にかけて、『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』という作品を上演します。

なぜ今、この作品を上演したいのか。なぜ今、この作品とともに、「痕跡」にこだわろうとしているのか。こういうことをきちんと書くには、当日パンフレットの紙面はおそらく狭すぎるので、本番まで時間と体力の許す限りで、長い紹介文を書いていけたらと思っています。もちろん、作品の内容に直接言及することはないし、読まなかったからといって上演がわからないというようなことは一切ありません。ただ、散策者のたどっているプロセスを記録し、それを多くの人と共有するために書きたいと思います。

 

「痕跡をみつめる詩人の眼」

 

 普段めったに詩を読まない私に、お気に入りの詩がひとつできた。ある穏やかな日の午後、図書館で何気なく手にとった一冊の詩集のなかに、それは書かれていた。詩人の名前は、尾形亀之助というらしい。

 

彼の居ない部屋

 

 

部屋には洋服がかかつてゐた

 

右肩をさげて

ぼたんをはづして

壁によりかかつていた

 

それは

行列の中の一人のやうなさびしさがあつた

そして

壁の中にとけこんでゆきさうな不安が隠れてゐた

 

私はいつも彼のかけてゐる椅子に坐ってお化けにとりまかれた

 

 

 ここで詩人は、部屋にかけられた洋服という、不在の「彼」の痕跡を見つめている。より正確には、部屋にかけられた洋服を、詩人の見つめる眼が、痕跡にしている。

 洋服を見つめる詩人の眼は、きっと品があって優しい眼であるような気がする。それはその眼が、行列の中に埋もれたり、壁の中にとけこんだりしそうなものを、大切に掬いとろうとする眼だからだ。痕跡に思いをはせる人の眼というのは、おそらくそういうものだ。その眼はたぶん、目の前にいる「彼」を見つめる眼よりも、品があって優しいだろうと思う。

 だが、ここでいう「品」だとか「優しさ」というのは一体何のことだろうか。

 次回公演のチラシの裏に、原作から抜粋した次の言葉が書かれている。

 

さまざまな痕跡がのこっている。

そこの人間がなにをして暮らし、なにを買って、誰とつきあい、なにを夢見ていたか。

そういうものがいたるところにあること。それを僕が追いかけること。

その行為にはきっと、品というものを忘れずにいなければならない。

 

 ここで、「品というものを忘れずにいなければならない」と言っているのは、おそらくどれほど痕跡を追いかけたとしても、その痕跡の主である存在そのものには到達しないようにしなければならない、というようなことだと思う。というのも、人間というものは、生(なま)の存在を目の前にすると、自分本来の品や優しさを保つことが難しくなるからだ。(欲求の対象としての)お金や恋人を引き合いに出すとわかりやすいだろう。

 現前はわたしたちの欲望を強く刺激する。「わたしは現前が好きだ。」「わたしは現前が欲しい。」このような欲望を肯定することは、いささか品を欠くとしても、全然悪いことではないと思う。だが、「わたしは現前にしか興味がない。」という態度をとり、痕跡をみつめる詩人の眼を完全に捨て去ってしまうとすれば、それは逆に生きづらさを生むように思える。今を生きるわたしにとって、「わたしは現前にしか興味がない。」という態度から距離を取り続けることはなかなかに難しい。欲望すれば割となんでも手に入るような時代だからだ。現前だけに興味を示しつづけても、それなりに充実した生活を送ることはできるだろう。

 それでもわたしが「品」や「優しさ」を保っていきたいのは、何より自分自身に即して生きていたいからだ。「品」や「優しさ」が絶対的に善だからとか、そういうことではない。ないよりもあった方が、自分が生きやすいだろうからだ。時流や社会というもののせいで、自分本来の品や優しさを損なってしまうのは勿体ない。現前にばかり振り回されず、ときには不在の誰か(幽霊、お化け)と戯れてみる。部屋にかけられた洋服を、ただのモノとしてではなく、「彼」の痕跡として見つめてみる。そういう慎ましい処世術を忘れないために、私は次回上演を通じて、自分の中の、痕跡をみつめる詩人の眼を確かめたい。

 

散策者 中尾