長い宣伝文 台詞を言えないことがある

散策者の劇団員で、次回公演にも出演する岡澤由佳に、長い宣伝文の第2弾を書いてもらいました。以下に掲載します。

 

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台詞を言えないことがある。それは、単純な覚えの甘さからではなく。

 

散策者で稽古をしていて、台詞を言えないと感じることが増えた。他の稽古場でだって台詞を言えないことはあったけれど、その原因の大半は覚えの甘さだ。そういった覚えの甘さを抜きに考えてみても、この稽古場での台詞の言えなさは確かにあるように思う。

この稽古場における「台詞を言えない」というのはどういうことなのか。この文章を書いている今現在も完全に理解できている自信はない。けれども、そうだからこそ、この「言えない」について言葉を尽くしてみようと思う。そうすることで散策者の稽古場の一端を語ることができそうだから。

 

 

「言えない」とき、具体的にはどんなことが起こっているのか。それをまず言葉にするところから始めたい。「言えない」と思うシーンに共通することを書き出してみる。

じゃあこのシーンをやってみようとなると、私は台詞を口にしながら動いてみる。「言えない」ときというのは決まって、しっくりこない感覚がある。最初は違和感から始まって、次第に「言えない」が確信的になっていくように思う。自分の声も、身体の在り方も、気になり始めたら止まらない。私の思い通りに見せることができているだろうかと思うと、それだけで一杯になっていく。速く話し過ぎてないだろうか、声色が付きすぎているんじゃないか、不用意に動いてしまった気がするな。思わず、こうした色々に頭を働かせ続ける。そんな中でも挽回しようと言ってみたり動いてみたりするけれど、ますます考えこんでしまうことが多い。結果、言えなかったなという現実としっくりこないでいた感覚が残る。そういった結果というのは見ている側にも伝わるところがあるらしい。演出家から指摘されるポイントは大抵しっくりこなかったところだったりする。

 

ここで一度、「言えた」と思えた時について記してみる。きっと「言えない」を語るにはこちらも必要になってくるだろう。

本当は、「言える」について言葉を並べることができればいいのだけれど。不思議なことに、「言えない」と感じることはあっても、「言える」とは感じたことがないような気がする。あったとしても、「言えた」のかもしれないという事後的な感覚だけだ。それだけに、「言えた」かもというときのそれを鮮明に覚えている。以下、具体例として前回の第二回公演の稽古中、一つのシーンを練習していた時のことを記してみる。そのシーンは、廃墟を訪れていた〈僕〉がそこにかつて居住していた〈鯉沼薫子〉の痕跡を見つめたのち、彼女に宛てて手紙を書こうと決意するものだった。

 

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その日、私は早退せねばならなかったので、あらかじめ決められた時間より早くから稽古をすることになっていた。稽古を始めるとなって、一番最初にやってみようとなったのはこのシーン。このシーンはまだ何度も練習したわけではなかったから、どうふるまうかの裁量はほとんど私にあった。舞台には、ブルーシートの上に虹色の花型風車やマグカップ、化粧ポーチなどが置かれている。このシーンではここを鯉沼薫子の部屋に見立てて、私がその部屋に入るところから始まり、出ることで終わりということだけ決まっていた。

一度目。部屋に入って台詞を口にする。近くにあって目についた虹色の風車を手に取った。それは台詞が飛んでしまって慌てての行動だったのだけれど。手にすると回してみたくなり、くるくると回しながらそれに向かって台詞を口にした。しっくりは来なかった。それを見ていた演出家からは、風車を手に取ったみたいに何か一つを手に取って、それを対象に言ってみるのはいいんじゃないというようなことを言われた。それを踏まえて、二度目。部屋に入って台詞を口にした。何か一つを対象に、ということだったのでマグカップに注目してみようかと考えていた。なのに、実際に入ってみると、なぜか自分から一番離れたところにある化粧ポーチが気になった。近づいてみることにした。近くにしゃがんで見てみると、ピンク色でレザー素材のマチ付き、その中にはいくつかの化粧道具。触れてみたくなった。けれど、とてつもなく女性性を帯びて見えたそれに触れてもいいのだろうかとためらう気持ちが生まれた。そこにはもういない鯉沼薫子に対して語り掛けるような台詞を、化粧ポーチに向かって言いながら、少しだけ触れてみた。そうして、壊してしまわないようにその表面をすこしだけ撫でてみた。手紙を書こうという決意を述べるころには化粧ポーチから離れ、立ち上がって歩き出していた。それからその部屋を出た。そこでシーンは終わり。最中は、化粧ポーチに吸い寄せられて、ただただ化粧ポーチのことを考えるだけで頭がいっぱいで、ただただそれだけだった。その時の不思議な感覚が残った。演出家からよかったと伝えられると、もう稽古場を出なければならない時間だった。駅に向かいながらその感覚を確かめ、何が起こったのかを考えた。電車に乗ってからどうにか言葉になったものを書き留めた。そうすることでこの時感じていたことを忘れずに取っておこうと思った。

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今改めて振り返っても、あの時本当に「言えた」のかはわからない(「言えない」が分からないのだから)。けれど、それでも確かなのは、私があの化粧ポーチから、それが置かれたブルーシートという部屋から、稽古場自体から影響をうけたこと。何者かに吸い寄せられ、手をのばすように仕向けられたかのような、それでいて、あの時そこにあった身体の欲望通り身体が動いていたようなこと。それが思い込みであったなら、よく見えるなんてことはなかっただろう。

 

 

「言えない」と感じた時と、「言えた」気がした時を無理やり比較してみると、意識の向く先に違いがあるように思う。前者は俳優自身の言動に意識が向いている。一方、後者は俳優の周囲にあるもの(化粧ポーチなど形あるもの、場の環境や状況といった形ないもの問わず)に意識が向いている。

前者は自問自答を繰り返すような孤立状態に陥っている。何かが生じてその影響を受けるとしたら、震源は自分自身でしかありえない。けれども、その生じさせるということへの動機がないために何も起こらない。何もないまま舞台に立っていると“俳優としてこうあるべき(速すぎるくらいに言ってはならない、不用意に動いてはならない、…)”という思考にがんじがらめにされていく。対して、後者の場合、周りから影響を受けて反応することが可能な条件がそこにある。そこで生じたどのような影響であれ、受け取ると何らかの欲望が生じる。それは次の行動の動機になる。

もしかすると、「言えない」というのは影響を受けて反応するというやりとりに身を置き損ねた時に生じるものなのではないだろうか。影響を受けまいとシャットアウトしたり、ぼんやりと鈍感になっていたりするときに起こるのではないだろうか。

 

では、少しでも「言える」に近づいていくためには。もちろん、影響を受けて反応するということは必要である。ここにおいて、関係性の中に意味を見出せるかどうかというところはひとつヒントになり得る気がしている。言い換えれば、より適当な意味づけが関係性の中で行われるかどうかというところだろうか。

化粧ポーチを見つめたあの時、その姿形から私はそこに女性性を見出していた。この場合で言うと、化粧ポーチとじっと向き合い、鯉沼薫子という女性が登場するテキストを発話する私との結びつきでそこに女性性という意味が生じた。言い換えるなら、テキストという文脈のもと、化粧ポーチと私の関係において意味がより適切に配されたということである。さらに言えば、そうであると同時に、化粧ポーチと私の関係が文脈により正確に合致するものであったとも言えるのではないだろうか。この点で、事前に決めていたマグカップではなく、より心惹かれた化粧ポーチに近づいたことはプラスに働いている。場から生じた影響と、それによって生じた欲望を抑えて行動することは、影響を受けることを拒否するあり方である。拒否の先には孤立しかなく、意味づけ以前に関係を持つことすらできなくなってしまう。

 

ここまで散策者の稽古場での「台詞を言えない」について言葉を並べてきた。この「言えない」は場と関係し合えず、影響を受けたり、それに反応したりというコミュニケーションができないでいる時のことなのではないかというところである。

影響を受けないでいることはラクだし、省エネである。逆に、影響を受けることはエネルギーがいることで、かなり大変だ。ましてや、反応することなんて。けれども、だからこそ、関係し合ってコミュニケーションできると、計り知れない何者かが立ち現れるんじゃないか、なんて考えていたりする。

 

岡澤由佳

 

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公演情報

 

散策者第3回公演

アイルトン・セナの死んだ朝』

作 新居進之介 演出 中尾幸志郎

<出演>

 岡澤由佳 

 笹原花

 土田高太朗

 長沼航

 原涼音

 

<日程>

10月 12日(土)  14:00- / 19:00-

         13日(日)  14:00- / 19:00

         14日(月・祝)  17:00-

 

<会場>

‪RAFT‬
‪(JR・都営大江戸線東中野」駅西口より徒歩13分
東京メトロ丸ノ内線都営大江戸線中野坂上」駅A2出口より徒歩10分)

 

<料金>

予約 1500円

当日 1800円

 

<予約>

ticket.corich.jp

 

Twitterアカウント @the_Sansakusya

mail: the.sansakusya@gmail.com

 

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長い宣伝文 言葉を追うこと、そして<顔>を失うということ

散策者第3回公演『アイルトン・セナの死んだ朝』に向けて 

長い宣伝文

 

言葉を追うこと、そして<顔>を失うということ

1. 

 わたしたちは普段、自分や他の人間に顔があることを自明だと思って生活している。だが、劇の稽古をしていると、そういう自明なことさえ簡単に疑わしくなる。さっきまで自明に顔のあった友人が、目の前で演技をはじめた途端、その顔の所在が不明瞭になってしまうことがある。これは別に、宗教的な経験だとか、稽古が難航するあまり見る側の気が狂ったとかいうことではない。ただ演技が上手くいったという、ありふれたことが起きただけだ。

 顔というのは、しばしば個性とか特異性というものに結びつけて考えられる。確かに私たちはそのようにして(つまり、友人や家族のそれぞれを顔で区別するようにして)生活している。だが、顔が与えてくれるこの直感—<わたし>は特異な存在である—は、本当に疑いの余地なく信じられることだろうか。

 太田省吾は、舞台上で役者が振り返ることで起こる、この自明性の崩壊について次のように述べている。

 

この変わり目、身体を他者の前に立てること、このことがあらわしてくる様相を退行とよんでみる。何が退行するのか。<私>が退行する、否、<私>の自他峻別性が退行する。そして相対的に、といっていいのだろうか、自他共同的側面が浮上することになる。 

 

よくある勘違いに、劇は個性を追求するものだといった考えがあるが、太田はそのような劇をそもそも劇として認めない。ここで言われているのは、それとは全く逆のことで、むしろ自らの特異性(自他峻別性)が疑わしくなるような地点に身を晒すということだ。では、なぜ自他共同的側面が浮上するか。俳優は舞台上で、次のような身体を晒すことになるからだ。

 

第一に、<私>が身体をもってそこに存在しているとは、食って寝て、そしてそれを確保するために、少なくない制度を受け入れているということを示しているのであり、その事実によって他と共同的に維持されている身体である。そして第二に、われわれは類的な身体構造をもち、類的欲望をもち、そしてその身体は、生まれ—育ち—老い—死ぬという絶対過程を歩むという宿命、先天性をもっている身体である。 

 

まさに、舞台上で顔を失う俳優というのは、ここで言われているような身体として立っている人間のことだ。太田はここで、社会生活における「自然な」身体とは異なる、舞台上の身体について述べているが、私が考えたいのも、そのような身体における<顔>のことだ。常日頃身に纏っている、社会性という仮構を剥いで舞台上に立つとき、その人間の顔の所在は途端に不明瞭になる。そのときの人間の顔は、人間的であるというより、むしろ幽霊に一歩近づく。

 思うに、劇はそういう幽霊じみた顔で行われなければならない。なぜなら、そういう顔だけがテキストという他者に対峙できるからだ。言葉を解釈したり、「腑に落とし」たりするのでなく、言葉とともに在ろうとすることができるからだ。

 

2. 

 公演直前のこの時期に、わざわざ顔の話をするのには訳がある。それは、戯曲のような台詞形式のテキストでなく、小説形式のテキストをそのまま上演することは、別に驚くようなことではないと予め表明しておくためだ。確かに、今回のテキストは前回の日記形式のもの以上に、かなりとっつきにくいものだった。実際、そう認めざるをえないほど稽古は難航してきたし、正直今も順調とは言えない。だが、俳優の不明瞭になりゆく裸形の顔を見るには、案外戯曲よりも小説の方が向いていると感じることが多いのも事実なのだ。

 描かれる人物はいつも、はっきりとした顔をもたない。どんなに正確に、詳細に顔を書こうとしても、その顔が現前してくることはない。そのため、小説を映画化する際や、戯曲を上演する際は、キャスティングという過程を経て、無理やり一個の顔をその登場人物の名にあてがわなければならない。しかし、映画のことはわからないが、少なくとも演劇においては、この顔の所在は厄介になる。なぜなら、この一個の顔は、テキスト内の全く不明瞭な顔とは対照的に、特異な顔として立ち現れようとしてくるからだ。まさにこのことが、テキストと上演との間に生じる最も根源的な決裂、あるいは断絶につながる。

 この厄介さは、小説を上演しはじめて以来ずっとつきまとってきた問題だった。はじめは顔を持たなかったはずのテキストが、それと乖離した俳優の一個の顔と無理に重ねられることで、蹂躙され、響かずに死んでいく。見ていてはっきりと、安易な再現が通用しないことがわかる。だが同時に、稽古をしていると、人物名のもつ驚くほどの「引力」を感じずにはいられないのも事実だ。俳優は、文中にただ文字として現れただけの人物を、ともすると再現しようとしてしまうのだ。もちろん、それ自体は悪いことではない。だが、この「引力」に引きずり込まれるほどに、顔は何かそれらしき、嘘の明瞭さを帯びてしまう。

 さらに言えば、この「引力」は登場人物の名前など固有名だけでなく、動詞にも強くはたらいている。テキスト内に「泳ぐ」という動詞が出てくれば、たちまち俳優は「泳ぐ」仕草をしてしまいそうになる。だが当然、そのような安易な演技はすぐさまテキストによって蹴られる。つまり、「泳ぐ」という行為自体が押し付けがましく現前し、テキストとしての「泳ぐ」という言葉が死んでいく。このように、テキストはつねに動作による再現を魅了し、惹きつけつつも、いざ再現しようと試みると、その動作を決して受け付けようとしない。

 これだけ書くと、小説の上演とはなんて厄介なんだと思われそうだ(し、これまでわたしもそう捉えていた)が、実は事態は逆なのではないかと考えている。というのも、上で書いたような問題は、何も小説に限ったことでなく、戯曲や上演台本でも同じように生じているはずだからだ。たんに、後者の場合、問題が見えにくくなっているだけだ。戯曲を用いると、俳優の顔は失われていっているのか、かえって厚化粧を重ねているのか、かなり注意しないと気づかないかもしれない。特に役というものは、本来裸になるべく用意されたものであるはずが、その逆に派手な衣装や厚化粧に転じてしまいやすい。それに対し小説は、比較的分かりやすい仕方で、厚化粧した俳優の顔を突き放してくれる。

 だから、ありきたりな言い方をすれば、小説を上演することはわたしたちにとって逆境であり、同時にチャンスなのだ。ここで書いたように、厄介なことだらけではあるが、シーンができた時の喜びはその分大きい。社会生活の中で現れる、あの「自然な」顔でない、何か別の顔。幽霊の顔。それは<他者>に対峙することの可能性を感じさせてくれるような、希望に満ちた顔だ。

 

3. メモ

 テキストの世界に身を置いてみれば、ずっと遠くの方に、ぼんやりと<顔>が見える。その<顔>を追いかけ続けること。それが自分の<顔>を失うことにつながり、そうして舞台上に立てるようになる。だが、決して手にしてはいけない、否、手にすることはできない。手にしたと直感したときにはいつも、テキストは「もっと別の顔を」と言ってくるだろう。

 

 

演出 中尾幸志郎

 

 

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公演情報

 

散策者第3回公演

アイルトン・セナの死んだ朝』

作 新居進之介 演出 中尾幸志郎

<出演>

 岡澤由佳 

 笹原花

 土田高太朗

 長沼航

 原涼音

 

<日程>

10月 12日(土)  14:00- / 19:00-

         13日(日)  14:00- / 19:00

         14日(月・祝)  17:00-

 

<会場>

‪RAFT‬
‪(JR・都営大江戸線東中野」駅西口より徒歩13分
東京メトロ丸ノ内線都営大江戸線中野坂上」駅A2出口より徒歩10分)

 

<料金>

予約 1500円

当日 1800円

 

<予約>

ticket.corich.jp

 

Twitterアカウント @the_Sansakusya

mail: the.sansakusya@gmail.com

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〈出会い〉の演劇を目指して

 今年の春、およそ2ヶ月間かけて、「散策者発表会 vol.2」というのをやっていました。「発表会」とはいったものの、実際には全8回のワークショップのようなもので、内容といえば太田省吾の戯曲を用いつつ、演技というものをめぐって、散漫な思考をはたらかせてみたり、実際に体を動かして試してみたりするといったものでした。

 散策者では、この「発表会」と通常の公演とを繰り返す活動形式を取っているのですが、スケジュールの問題を省いて言えば、主に次のような効果があるなと実感しています。それは、現場的な思考とエッセイ的思考のバランスが程よくとれることです。上演のための活動ばかりを反復していると、どうしても目下の技術的問題に囚われがちになるところを、発表会を挟むことで風を通すようなイメージです。自分たちの活動を、既存の他の方法論(vol.1は新聞家、vol.2は太田省吾)と照らして相対化するとともに、盗めるものは盗むといった感じで。

 そのため、ここのところ公にしてきた文章は、エッセイとして(そこそこ)まとまってはいるものの、「生かしづらい」ものが多かったなと感じています。そこで、今ちょうど、次回公演の稽古が立ち上がってきたなというところでもあるので、一度「使えそうな」方法をまとめておこうということでこの文章を書いています。なので、実際に創作に携わっている人向けな内容ではありますが、よければこれを読んで次回公演に興味をもっていただけたらと。

 

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〈出会い〉の演劇を目指して

 

The goal is to find a meeting between the text and the actor.

Don’t illustrate the play, but meet it.

 

                                              —Jerzy Grotowski

 

1.座組内の領分のこと

 前回の発表会では、太田省吾から5つの作品を選び、声に出して読んできました。戯曲にかぎらず、テキストを上演するというとき、常に問題になるのは、テキストを「どのように」扱うかということです。ただ、ここで「どのように」に対するさしあたりの回答として、「なるべく忠実に」とか「ひどく冒涜的に」とかいった仕方で答えたところで、現場では大して役に立つことはありません。現場において、第一に必要なのは、そこにいる人々の仕事の領分を明確にすること、そして次に考えるべきは、観客の存在です。

 したがって、テキストの扱い方について言えば、テキストー俳優の関係、それからテキストー観客の関係を起点に考えていく必要があると思われるのです。そのため、以下ではそれぞれについて述べていきますが、その前に散策者の稽古場における領分について一言。

 散策者では、作家と演出家を別の人間が担っているため、主にそれぞれ作家、演出家、俳優という役割の人間が、稽古場に集まります。作家はその名の通り、上演されるテキストを書く人間ですが、どのように上演するかという都合は一切考慮せず書きます。さらに言えば、現在作家を担当している新居進之介は、ふだん小説を主に執筆していることもあり、戯曲の体裁を取らない、より書き言葉然とした文章を提出してきます。第二回公演『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』のテキストは、ほとんど完全に日記小説といっていいようなもので、ト書きも台詞らしい台詞も書かれていませんでした。作家の仕事は、それ自体として構築されたテキストを編むこと、基本的にはそれだけです。そして、稽古場では、俳優の口から発される言葉をきいて、テキストをその都度修正したり、言葉の響き方について演出家と相談したりというのが主な仕事になります。

 俳優は、そのテキストと実際の環境に対し、つねに過不足なく反応し続けることが仕事です。そして、この「反応」という厄介な現象を起こすために、場やテキストを構成するのが演出家です。俳優と演出家の共同作業は、どちらも演技をつくる仕事なので、はっきりとした領分が規定できるものではないですが、ここでは少なくともこうではないという点だけ述べようと思います。

 まず俳優について言えば、どのように見せるのがよいか、どうすればもっと面白く見せられるか、ということを考えて動くことはあり得ません。俳優の仕事は、テキストや相手役など周囲の環境との関係に没入することであって、観客を喜ばそうと余計な邪念をはたらかせることではありません。実際に客先に座る(であろう)観客のことを意識するのは、演出家の仕事です。どんな俳優も、心のうちに「演出家」を宿していますが、まずそれを徹底的に排さなければ稽古ははじまりません。

 そして演出家は、俳優に直接的な要求をすることをなるべく避けなければいけません。ここはこう動いてほしいと言ってみたり、はたまた代わりにやってみせたりするのは、領分の侵犯です。要求としては、せいぜい「こうしないでほしい」に留まるべきで、すべてを思惑通りに組み立ててしまえば、生の〈出来事〉として提示されるべき舞台が、「ウェルメイド」なものでしかなくなるでしょう。たとえるなら、遊びのルールだけ作って、あとは俳優が実際に遊んでいるところを見守り、ルールに不備があればその都度直す、くらいのつもりでいられると最適なのかなと思っています。(まだその境地には全然達していませんが。)

 領分について詳しく書こうとすると、あまりに文字数が膨大になるので、ここでは稽古場内の主な仕事にかかわるものに絞りましたが、実際にはもっと複雑で多様です。これについては、次回公演が終わったあたりに、整理のため、まとまった文章を書けると良いなと思っています。

 

2. テキストと俳優

 ここまで大雑把に、それぞれの領分について書きました。では俳優の領分において、俳優がテキストとかかわるとは一体どういうことか。それについて、いま考えていることを整理していこうと思います。

 少なくとも演劇においては、演技はテキストと切っても切れないような〈関係〉にありますが、ここでいうところの〈関係〉とは一体何か(いやむしろ、何「でない」か)。このことを考えるために、かなり回り道にはなりますが、「演技」と一口に言われるものを、一度gesture(身振り)、movement(身動き)、action(行動)に分けて考えるところからはじめてみたいと思います。

 ポーランドの演出家であるイェジュイ・グロトフスキ(1933-99)は、自らの望む演技について、gestureでもmovementでもなく、physical action(身体的行動)であると語っています。(これは、多くをスタニスラフスキーから受け継いだものでもあります。)

 まず、gestureとは、いわゆるボディランゲージのジェスチャー同様、「伝える」演技です。俳優が、自らの演じる役の置かれている状況などを、身振りをもって観客に伝達するというものです。gesture の演技というと、真っ先に思い浮かぶのは、これまた20世紀の主要な演出家ベルトルト・ブレヒトですが、グロトフスキは彼の主宰していたベルリナー・アンサンブルの舞台を絶賛していながらも、演技論についてはあまり間に受けていないような印象があります。というのも、gesture演技では、俳優と観客の間にコミュニケーションが起こることが前提とされており、このあたりがグロトフスキの理想と真逆だったからでしょう。グロトフスキの舞台においては、俳優と観客の距離は非常に近く、第四の壁は排されているものの、観客は俳優と交流するというより、異様な存在としての俳優に立ち会うという感じです。冒頭の引用にみられるように、グロトフスキは、俳優が観客に「伝える」のではなく、俳優と観客が「出会う」ことを目指した人だったのです。彼は、演劇を「嘘」のイリュージョンとするよりも、むしろ真実味のある〈出来事〉を現前させる方法として考えていたような感じがあります。(その点で、スタニスラフスキー同様、リアリストだったと言えるでしょう。)

 私もいまは、グロトフスキ同様、虚構としての演劇のなかで、普遍的に信じられるような〈出来事〉を現出させることに興味があります。そのため散策者では、いかにもgesture的な演技はさしあたり全て排するようにしています。もちろん、gesture的な演技に可能性を感じないわけではないですが、下手にいいとこ取りを狙って半端に陥るよりは、潔く捨てた方がいいということです。

 次に、movementについて。以前わたしが書いた文章のなかでは、ムーブメントという言葉を肯定的な意味合いで用いましたが、グロトフスキが言うところのmovement というのは全くの別概念で、否定的な意味合いで言われています。gestureにおいては、俳優が観客に「伝えようとする」という、悪い意味での能動性が指摘されましたが、movementは逆に、結果として何も伝わらないという、客観性(構造)のなさが問題にされます。movement とは、その語の通り、たんなる「動き」ということで、それ以上でもそれ以下でもないものです。観客に何ものももたらさない、言い換えれば、「不足のある」「強度の低い」演技です。散策者にとっても、第二回公演で直面せざるを得なかった、演技の「不足」をどう乗り越えるか、これが目下の大きな課題になっています。

 では、これらと対照的に肯定的なものとして述べられるphysical actionとは一体何か。これは説明するにはなかなか厄介なものなのですが、一つ言えるのは、舞台上にいる俳優がつねに行動の指針をもって演じるということです。つまり、flowやscoreといったものがしっかりと用意されているということ。台詞がないときにも、十分に不足なく舞台上に居られるということが重視されるわけです。たとえば、スタニスラフスキーは、physical actionのなっていない俳優に対して、「誰に対して」、「どういう目的で」、「自分はどういう立場として」その台詞を言っているのか、あるいはその行動をするのか、ということを明確にするよう、問い詰めていたようです。

  ただ、これは100年近く前の演技論なので、今すべてを真に受けるには、少しアップデートする必要がありそうだという予感があります。たしかにこの方法は、社会的なドラマを自然主義的な手法で上演する際には、かなり有効です。しかし、〈社会〉を生きる存在としてではない仕方で、俳優を舞台上に立たせようと思うとき、俳優が「何」あるいは「誰」であるかということは、どうしても不透明であるしかないのです。そのため、「誰に対して」言っているのかという問い詰めが、方法としてもうまく機能してこないのです。(わたしは、ここのところ流行りだと言われている「モノローグ演劇」が、演技においてやや行き詰まっているように感じられるのは、おそらくこの問題が根っこにあるからではないかと、憶測しています。)

 

3. 出会いの対象ではなく、その様態を考える

ここでは、上記の課題も引き継ぎながら、〈出会い〉という概念をキーワードに、俳優の様態ひいてはテキストとのかかわりについてようやく触れたいと思います。

 〈出会い〉というものはまず、どうあがいても偶然性の賜物です。始まりから終わりまで、プロットがすでに規定されている、いわば必然性のドラマの中で、〈出会い〉は生じ得るのでしょうか。このことについて述べた、太田省吾の言葉を見てみます。

 

  ところで、われわれの生には数知れぬ偶然性が働いていて、それはわれわれ
の存在の基本を形成している。(無根拠性、生の時間の長くない有限性とと
もに)
その働き、力は無視する以外に手はないのだろうか。
それは、表現において(殊に演劇表現において)<社会>を生きる者しか扱
えないのかという問いへ通じる問いである。

 

「〈社会〉を生きる者しか扱えないのか」に対する太田なりの応答が、かの有名な沈黙劇シリーズでは特に徹底されたのだと思われます。つまり、社会性の仮面を剥いだ人間として、俳優が舞台上に立ち、そうすることで偶然そこに立ち現れるものである、〈出来事〉の契機を見出そうとしたのだと思うのです。『水の駅』で俳優らが目を合わす、あるいは手で触れる、その瞬間すべてが、ひとつひとつ奇跡的な〈出会い〉のように感じられることは、舞台上でも偶然の出来事が立ち現れうることの証左といえるでしょう。

 この太田の仕事には、〈出会い〉の演劇を考えるにあたって、とても重要な示唆が含まれているように思えます。それは、「何と」出会うかということではなく、むしろ「何として」出会うかということの方が問題であるということです。そのようにとらえ直せば、〈出会い〉という概念は、演技態という具体的かつ実践的な問題に置き換わります。

 「何として」というときに問題になるのは、「何」の部分ではなく、「として」の方です。それは言い換えれば、キャラクター(社会的人格)として捉えることが不可能な様態、社会性の仮面を剥いだ先の様態のことです。そして、この様態を生み出す方法論として、physical actionを再び登場させることができるのではないかと考えています。それは、「何」とか「誰」とかいったものを空っぽにしたまま演じるための方法論になるわけですが、そうなってくるとphysical actionの構成要素として残るのは、行動のscoreのみになります。そしてこのscoreは、上演されるテキストから構成されたものであってはなりません。なぜなら、ドラマに登場する人物はあくまで「何か」あるいは「誰か」として描かれるしかないからです。

 俳優はテキストを描くのではなく、テキストと出会わなければなりません。そのためには、出会うための様態が必要で、それにはキャラクターに依存しない行動様式(スコア)が要ります。そう考えると、もとのテキストから演技を構築することはほぼ不可能なことになります。さらに言えば、散策者が現在扱っているテキストは、ほとんど小説のような形式で書かれているため、テキストをどうほじくり返しても、俳優の行動は決まっていかないのです。わたしは今、このことを試みそれ自体の矛盾としてではなく、そういうものとして受け入れてしまおうという立場にあります。極端なことを言えば、仮に近代の戯曲を扱ったとしても、戯曲をほじくり返してそこから演技をつくるというやり方はもはや通用しないのではないかとさえ思っています。

 それでは一体どうするか。現在とっている作戦は、あえて一度、上演テキストと俳優との関係を断ち切って、スコアを別で用意するというやり方です。つまり、演出家がもとのテキストと別に出来事のスクリプト(構成ノートと呼んでいます)を作ってしまって、それをまずはそのまま実行することを通して、演技を立ち上げていくというやり方です。もちろんこれだけでは、味も素っ気もない、不足だらけの演技ですが、ここから先は俳優がその不足分を埋めていくという作業です。したがって、構成ノートを書くまでが演出家の領分、それをベースに動きつつ過不足のない演技を構築していくのが俳優の領分ということになります。

 実はこの構成ノートという発想は、グロトフスキ、太田省吾の両名ともが共通してもっていたもので、ほとんどわたしは知らないのですが、もしかしたらタデウシュ・カントール(のイメージ・スクリプト)もその内に入るかもしれません。彼らが積み上げてきたものを堂々と盗用しようという魂胆です。

 構成ノートの作り方についても述べたいところではあるのですが、実際にまだ着手しはじめたばかりで、これから不測の事態に陥ることも考えられるので、これは公演後に書けたら書こうかと思います。

 

4. 〈出会い〉の演劇を目指して

 ここまで書いてやっと、冒頭の “Don’t illustrate the play, but meet it.” という言葉についてきちんと説明することができます。俳優が上演テキストから直接には演技を構築しないという方法は、ともすればテキストを蔑ろにしていると誤解されるかもしれませんが、そうではありません。

 上演されるテキストは、(特に散策者においては)「書き言葉」として完成されていることが第一に求められています。そのため、紙媒体で読むのとは別の価値を提示することが、舞台には当然要求されるでしょう。その価値とは何か。この問いに対するひとつの答えが〈出会い〉なのではないかと考えています。

 第一に、俳優がテキストに出会うこと。俳優はすでに、テキストの内容を「伝える」ことから解放されています。俳優の領分に、テキストを「解釈」したり「伝達」したりという仕事は一切入ってきません。(観客にテキストの言葉が、正確に、記号として伝達されるようにするのは、演出家の仕事です。)そうなると、俳優の仕事は、構成ノートを指針に、〈社会的〉でない存在として舞台上に立ち、言葉の降りてくる瞬間に立ち会いつづけることです。このような言い回しが神秘主義めいていると感じられるなら、次のように言っても構いません。中動態の状態に身をおいて、言葉を操るのでなく、むしろ言葉に操られるようにして行動することです。

 第二に、そのような状態の俳優に観客が出くわすこと。鑑賞というよりもむしろ、目撃といった方がふさわしいような経験をすること。観客が舞台上で現におこっていることを、ある種の偶然性の賜物であると信じられる契機がおこれば、それだけで芸術というのは価値があるとわたしは思います。このような半ば奇跡的な体験を目指すためにも、重要になってくるのが演出家の仕事です。俳優がテキストをもとに演じるのでない分、「その言葉が今発される」ということが信に値するには、上手い構成が不可欠です。

 グロトフスキの「演劇実験室」には、ルイチャラド・チェスラクという看板俳優がおり、『不屈の王子』という作品は特に有名です。タイトルにもあらわれているように、この作品は敵陣に囚われた敬虔なクリスチャンの王子が、拷問によって蹂躙されながらも意志を貫徹し、殉教するという物語です。この作品において、チェスラクは王子役を演じたのですが、彼は決してそのような王子像を「描いた」わけではありませんでした。そうではなく、彼は思春期時代の性愛体験の記憶にもとづいて演技を構成したというのです。このときのことについて、グロトフスキは、彼の演技は「淫靡な聖人」というイメージでもって、戯曲と舞台のあいだに橋を架けてくれたと語っています。

 実際、『不屈の王子』の上演は映像や舞台写真で見ても、まさに〈出来事〉としての様相を強く感じる作品になっています。もちろん、ここに至るまでにはかなりの年月と、劇団内の経験の共有が必要不可欠でしょう。わたしたちは、下手に背伸びすることはせず、日々着実に稽古をすすめていくことで、すこしでも舞台上で〈出会い〉の生じうる契機を探っていけたらというところです。そしてその上演に、観客という存在が立ち会うことができたら、なにか現代社会に光を照らすようなものになるような気がしています。

 

 

 

 

 

これまでとこれからについて。発表会vol.2のお知らせ。

 おかげさまで散策者第2回公演『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』が無事終演しました。これまで、「書きことば」をいかにして読むか、という問題設定のもと、発表会vol.1の『白む』から、今回の日記小説『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』へと進んでまいりました。そして、これからまたすぐに発表会vol.2に向かっていくわけですが、そのための指針を明確にするためにも、ひとまずここまでで得られた成果、深めてきた問いについてまとめておこうということで、この文章を書いています。発表会vol.2についての詳細も最後に記載しますので、ぜひ最後までお目を通していただけたらと思います。

 

 1. これまでの活動を振り返って ーー「読み」について考える
 

 これまで半年間、散策者は「テキストをどう読むか」ということを演技における最重要課題として据えてきました。第1回公演の際は、テキストを(その通りに読まねばならない)権力構造として捉え、しかしそれに逆らわず、むしろ身をまかせるようにして読む、ということを一つの理想に掲げました。さらにいうと、「読む」主体(の身体)があくまで「読み」という現象が生起する<場>として機能するように読む、ということです。当時はこれを「中動態」の読み、演技という風にいって、稽古場で共有していました。

 ちなみに、このとき扱ったテキストは口語体のモノローグで、どちらかというと、たんに読むことだけでも<演技>が成立しやすい(ように見える)ということがあり、そこまで身体に何らかのルールや工作を課すことなしに上演しました。ただ、語る身体における身体性の脆弱さについては否応なく考えさせられました。それはつまり、「いただきます」と今ここで言った人物が、次のタイミングに両手を合わせ、何かを食べ始めるという身振りを行うことは、原則的に<過不足のない>演技ということになるが、「昨日おにぎりを食べた」と語る人物が、おにぎりを食べる身振りをしたり、関係のない踊りを始めることは、原則的に<過剰な>演技といえるということです。一方で、棒立ち状態で「昨日おにぎりを食べた」と言う演技をするのは、舞台のたっぱに対して<不足だ>と往々にして言われるでしょう。語る身体の身体性が脆弱であるとは、そういうことだと私は考えています。つまり、舞台上で語るときの身体というのは、原則的に何の制約も受けない代わりに、<過剰である>か<不足である>ことを迫られるということです。何をしてもいいというのは、往々にして不自由を意味します。

 こういったことを受け、「読み」の延長である「語り」、とりわけ「語る身体」というのも一つ大きな課題でした。いかにして<過不足なく>語るか、振り付けられるか。それはそもそも可能なのか。

 こうした課題を引き継ぐように、私たちは新聞家の『白む』というテキストに挑戦することになりました。前回のテキストと同様モノローグで劇が進行していくのですが、大きく違ったのは、前回のテキストが<話し言葉>として書かれていたのに対し、『白む』が徹底して<書き言葉>として書かれていたことです。

 書き言葉を上演するときに、必ずと言っていいほど直面する最も厄介な問題は、「黙読したほうが面白い」問題です。「書き言葉」なのに、なぜそれを「話す」のか。こうした疑問が自然に湧いてくることは、私たちがいかに演劇という<文化>に染まっているかを暴いているかのようです。今の私にとって、「話し言葉」を「書く」という演劇(戯曲、上演台本)の<文化>だって、それと同じくらいおかしなことなのです。「書き言葉を話す」ことが上演という場で起こりうる違和感だとしたら、「話し言葉を書く」ことは作家の机の上で起こるべき違和感のはずなのですが、後者は観客から不透明な場所であるがゆえに、あまり批判されることがないのだと思います。(他にも、読者は作家という権威を理解しなければならないという<文化>のせいもあるかもしれません。)

 少し話が逸れました。<演劇文化>への文句はさておいて、ともかく当面の課題としては、いかにして「書き言葉を話す」というずれに向き合うかということになります。『白む』の稽古場では、出てくる単語を記号的な模倣行為で表象してみたり、言葉のイメージを身振りに変換して出力してみたり、いろいろなことを試したのですが、結局なにをやっても「黙読したほうが面白い」という状況から抜け出すことができませんでした。そうして試行錯誤していった結果、どんどん新聞家のやり方に近づいていくことになりました。つまり、模倣的な演技を切り捨て、ただ口を使って語るということに専念するということ。それはいわば、「書き言葉を話す」という違和感を逆手にとった革命的な方法で、なるべくノイズを排して「書き言葉を話す」という異常事態をそのまま見せることで、観客はそのこと自体を各々のやり方で考え、受け止めるようになるという、翻って演劇的な方法だったわけです。しかし私たちは、「新聞家ってやっぱりすごいね」と言いつつ、そこで立ち止まって終わるわけにはいかなかったので、語り手1人と動き手3人に分割し、語り手はたんに書き言葉を話し、動き手はその聞こえと動き手同士のグルーブに従って動くということを試しました。しかし、そのときは演者の技術不足とあえて選択した演出家不在という状況が、悪い方向に傾き、見た目にはただカオスな空間が生まれるいうだけに終わってしまいました。

 そうした反省を踏まえての、第2回公演だったわけです。

 

nakawo546.hatenablog.com

 

このブログに書いたように、「書き言葉を話す」ということに対して、<理想的な花嫁>のように話すという作戦をとることにしたのです。該当箇所だけ引用します。

 

たとえば、結婚式の披露宴で両親に宛てた手紙を読む花嫁のことを、一つの理想モデルとして思い描いてみる。手紙は、特定の人物への、特別な思いが綴られた書きものだから、その書きことばには<声>が滲んでいる。また、あらかじめ刻み込まれた文字をそのままに読むため、花嫁の声には<書きことば>が入り込み、それが読みをぎこちなくする。手紙を読んでいる花嫁は、「流暢に」「うまく」読むという制約から逃れ、ただ文字通りに読むという制約のみに忠誠を尽くしつつ、自由にテクストとかかわる。「ありがとう」という言葉を、気持ちを込めて言いたければ、<まるで今ここで紡ぎだした言葉であるかのように>発話するだろうし、照れくさいと思えば、<そこにあらかじめ書かれた、今こことは無関係のもの>として発話するだろう。このようにして、<理想的な花嫁>は、役と重なったり役から外れたりする営みを自由に遊ぶ。

 

 たんに「書き言葉を話す」という異常事態そのものを楽しむのでなければ、どのようにして「書き言葉を話す」を楽しめるだろうか、と考えた先の結論がこれだったのです。つまり、テキスト(他者)と読み手(私)との間をたゆたうということ、役と重なったり外れたりする営みを自由に遊ぶこと。思えば、これも中動態といっていい「読み」の状態でしょう。手紙を発話する花嫁は、手紙を書いた私であり、手紙を書いた私でない誰かでもあるのですから。

 今回の『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』は、<僕>という一人称の日記小説を原則的にそのまま読むという作品だったため、役者たちは「<僕>にはなれないが、<僕>にならないということもできない」という状況のただ中にいたことになります。このことは、他の登場人物(J、堀田、リリコ、トミーなど)にも言えます。<僕>を今担っていることになっている役者が、「堀田という男は、」と語るときに見ている対象は、「堀田ではないが、堀田でなくもない」ことになります。そうなってくると、舞台とは役者たちの自己同一性が常に脅かされる場であることになります。そしてそこにこそ、演技という営みのエロチシズムが潜んでいるように、今の私には思えるのです。だから今深めたい問いは「役と重なる / 役から外れる」です。まるで標語のような形式の問いですが、当面はこれに向き合っていけたらと考えています。

 

 補足ですが、以前このようなツイートをしていました。まさに、「役と重なる / 役から外れる」を考えるきっかけとなった出来事について述べたものです。

 

 

2. 次回、発表会vol.2について ーー「役と重なる / 役から外れる」の実践と観察

 

 「書き言葉を読む」ということはこれからもしばらく続けていこうと考えています。具体的には、第2回公演で作を務めた新居進之介が、まだまだ散策者で書きたいと言ってくれていて、こちらとしてもあそこまで上演の都合を考えずに全力のエクリチュールをぶつけてくる厄介な作家がいることはありがたいことなので、彼と喧嘩別れするまではタッグを組んでやっていこうと思います。 ただ次の発表会は、小説などではなく、ちゃんと(?)戯曲を読もうと思っています。太田省吾です。一番大きな理由は、役者たちがそろそろ普通の芝居(対話とか)をやらせろと言ってきていることと、私自身もそういうのをやりたいと思うようになってきたことです。他にも、太田省吾は、「書く」ということにとても誠実に向き合ってきた劇作家の一人(らしい)ですし、引用(盗用?)をよくしていたり、女言葉を躊躇なく使ったり、あくまでエクリチュールとして戯曲を書いているという印象があるので、その点もいいなと思っています。

  そういうわけで、太田省吾のテキストを使って、「役と重なる / 役から外れる」について考えるのが主な目的となるわけですが、もう一つ企みがあります。それは、作品を単体でなく、プロセスとして享受するやり方を、私たちも一観客として体験してみようということです。最近、創作をやるにつれ、「何のためにこんなことをやっているんだろう」と感じてしまうことが多々あるのですが、その度にこの言葉を思い出します。

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尾形亀之助詩集 裏表紙

 

「自分自身に即して生きる」。実感を伴って理解することはできていない言葉なのですが、なぜかすごく惹かれ、憧れる言葉でもあるのです。そして、何となくですが、「自分自身に即して生きる」ということが、多くの制作者にとって、作品創作の大きなモチベーションの一つになっているような気もするのです。 であれば、一人の人間の作品群をなるべく丸ごと味わってみることは、とても良い作品鑑賞のあり方のように思えるのです。もちろんこれは、特定の作家を信仰することとは無関係です。そうでなく、あえて一人の人間というものにこだわってみること。それを、人生を老いていく準備として、今やってみたいと思うのです。

 

というわけで、発表会vol.2の内容はざっとこんな感じです。

 

目的:「役と重なる / 役から外れる」の実践と観察、プロセスとしての作品受容。

対象:日本語を音読できる方なら、誰でも歓迎です。各回のコピー代だけ頂く予定です。

読む作品(予定):『乗合自動車の上の九つの情景』『小町風伝』『裸足のフーガ』『死の薔薇 プラスチックローズ』『棲家』『更地』『ヤジルシ』(あくまで予定なので、リクエストなどあればお応えします。選んだ基準としては、なるべく初期から後期までバランスよくというのと、再演を重ねたらしいものを優先的に。沈黙劇の作品は除きました。)

 

初回:4月6日(土)『乗合自動車の上の九つの情景』

   場所 東京大学駒場キャンパスキャンパスプラザ第6音練

   時間 13:00集合(約3時間の予定)

   流れ 一台詞ずつ全員で回し読み→役を当てて読む→空間を使って読む(上手に読む、ということはしません。技術を高めることを目的としているわけではないので、安心してご参加ください。)


参加ご希望の方は、劇団員に一声かけていただくか、the.sansakusya@gmail.com宛に「発表会参加希望」の件名で、1. 氏名 2. 人数 3. 遅刻早退される場合はその旨をお書きになって、メールをお送りください。

 

二回目以降はツイッター(@the_Sansakusya) でお知らせします。今のところ、毎週か2週に一回ペースの予定です。

 

 

第2回公演に向けて はじめの問い

以下は、「CoRich舞台芸術まつり!2019春」に応募した際の文章です。

今回の第2回公演に向けて、私たちがはじめ何を考え、何を問うていたか、それをここに残そうと思います。終演後、これらの問いがどう深化していったか、そのことについて書きたいと考えています。

 

【団体紹介】 

 主宰は中尾幸志郎。2018年9月に旗揚げし、活動開始から半年程度が経過。旗揚げ当初は、「テクストという「読ませる」権力との向き合い方を考え、それをよりよく実践することを目指す」をコンセプトに、テクストを演劇における一つの権力と見立て、そこから生じる(かもしれない)中動態の演技を模索した。同年12月には、発表会 vol.1として新聞家『白む』を上演するとともに、見るだけでない演劇とのかかわり方を模索すべく、「書きことばに耳を傾けてみる」と題したワークショップを実施した。
 この半年間、舞台上の「演技」について思考し、実践してきた。もちろん、蓄積と呼べるようなものはまだないし、今回もこの延長線上で目一杯遊ぼうと考えている。稽古はまだ始まったばかりだが、さしあたり「役と重なる / 役から外れる」という、問いとも標語ともとれる言葉をメンバーと共有した。


【応募公演への意気込み】 

 俳優がテクストを自らの腑に落とし込み、そこから生まれた流暢な発話によって、ある種のイリュージョンがもたらされたり、生き生きとした現前が披露されたりする。そういう場こそが演劇の舞台であると、私は決して思いたくない。むしろもう一つの可能性、エクリチュールパロールが戯れる場、幽霊のテクストと現前の身体が戯れる場、として舞台を捉えてみたい。
 このようなことを考えていて、「手紙」を上演したいと思うようになった。たとえば、結婚式の披露宴で両親に宛てた手紙を読む花嫁のことを、一つの理想モデルとして思い描いてみる。手紙は、特定の人物への、特別な思いが綴られた書きものだから、その書きことばには<声>が滲んでいる。また、あらかじめ刻み込まれた文字をそのままに読むため、花嫁の声には<書きことば>が入り込み、それが読みをぎこちなくする。手紙を読んでいる花嫁は、「流暢に」「うまく」読むという制約から逃れ、ただ文字通りに読むという制約のみに忠誠を尽くしつつ、自由にテクストとかかわる。「ありがとう」という言葉を、気持ちを込めて言いたければ、<まるで今ここで紡ぎだした言葉であるかのように>発話するだろうし、照れくさいと思えば、<そこにあらかじめ書かれた、今こことは無関係のもの>として発話するだろう。このようにして、<理想的な花嫁>は、役と重なったり役から外れたりする営みを自由に遊ぶ。
 今回、手紙の文章を含んだ素敵な日記小説、『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』を原作にして、この思考を実践してみようとしている。

【将来のビジョン】

 他団体の「将来のビジョン」を読みながら、みなさん腹が決まっていてすごいなと、たじろいでしまった。散策者メンバーのうちには、これから就職活動を始める人、アルバイト生活をしながら俳優業に打ち込みつつある人、一寸先のビジョンも持てない人など様々いる。もちろん、主宰の私としては、これからも散策者を細くとも長く続けたい思いでいる。だが、今の私たちにとって、将来のビジョンを口で語ることが、本当に有意義なことなのか正直自信を持てない。今私たちは「これからどうしていくか」という問いに対して、口ではなく、自分たちの生活をかけて答えることになるちょうど手前のところまできている。(こんなところで何を、と思われるかもしれないが、実生活を見つめることなしに演劇は起こりえないと思っているのだから仕方がない。)
 とはいえ、私たちは散策者だ。とりあえず数歩先だけ見ておくのも悪くないように思う。次回公演が終わったら、今度は順番的に発表会vol.2がくる。この前、稽古場で太田省吾のテクストを、俳優を取っ替え引っ替えしたり、文脈に変化を加えたりして読んでもらったら、面白い現象や変化がたくさん観察できて楽しかった。演劇をやるとき、こういう素朴な楽しみは大事にしたいと思う。これは読み手のみんなも面白がっていたから、毎週人を集めていろんな相手と戯曲の一部を読み合うような会にするのも良さそうだな、などとぼんやり思っている。  

次回公演に向けて 2. 午前中ボォー. 午後もボォー

2. 午前中ボォー. 午後もボォー

 

 一日にはいろんなことがあるものだ。それが全部日記に書くことではないにしても、全く何もないということはまれである。今日のぼくなどは、朝から晩まで家にいて、何もしなかったと言っていいのだが、郵便は来たし、電話も来た。携帯電話も鳴った。そのひとつひとつに日記が対応したら、身がもたないけれど、うれしい手紙のひとつもあれば、それを記録しておくのもわるいことではない。

                  ーー『日記をつける』荒川洋治

 

 詳しいことは言わない(というか言えない)が、いま私の手元にA7サイズの小ぶりな日記帳が10冊ある。私のものではない。それに、持ち主の顔も名前も知らない。私はざっとではあるが、すでに全てに目を通した、というか、ついに全てを読んでしまった。日記帳のいたるところには人名と電話番号が書きつけられていて、この小さな可愛らしい紙面から、なにか異様なおぞましいオーラが立ち上がってくる。日記をしばらく読み進めていると、この日記の書き手が、高校生くらいの年の「美少年」をスカウトしたり、当時よく読まれていたらしい雑誌の編集をしたりしていたということが、ぼんやりとわかってくる。だからおそらく、ここに書きつけられた多くの人名や電話番号は、当時「美少年」だった人々や、当時編集者だった人々のものと思われる。

 当時、当時と言っているのは、この日記がちょうど20年前に書かれたものであるらしいからだ。この事実に気づいたときには、さすがに少し興奮した。はじめは空恐ろしかったのに、いろいろ分かってくるとだんだんと熱っぽくなってきて、もう引き返せないような盲目的な状況に陥った。他人の個人的な手記を覗きみるという行為には、そういうアブナサがあるように思う。

 と、ここまで書いておいてなんだが、その興奮を綴ることは今はしない。どのようにして、書かれた年代を暴いたかということも言わない。日記帳を読んでいて、ところどころ強い喜びや興奮を得たことは確かなのだが、そのことよりももっと穏やかで、書かなければ消えてしまいそうな気づきこそ、書いて残したいと思うからだ。

 私は日記をつけようとしても三日坊主で終わってしまうタイプなので、少なくとも約1年間、日記をつけ続けているこの人はすごいなと思う。特にこういう日なんかは、日記を書くということの本質を捉えているような気がして、私は静かに感動をおぼえるなどした。気は引けるが、引用したい。覚悟して読んでもらえればと思う。

 

7月4日(日)

午前中ボォー.

午後もボォー

アパートを

4時過ぎに出る.

代々木八幡で降りて

公園をぬけて. 渋谷へ

少し飲んで. アパートに戻り

それで帰*り

なんとむなしい

1日だったのか.

 

もちろん、現物は手書きなのだが、写真だとこういう場所には生々しすぎると思ってやめた。その代わり、読点の感じや、ぐちゃぐちゃっと修正してあるところなど、できる限り再現してみた。

 こうやって書き出して眺めてみても、やはり日記というのは素敵だなと思える。「むなしい1日」だったのに、書くことがあるということ。何もなかったようでいて、いろんなことがあったということ。「午前中ボォー」が、念願の美少年と出会えたことと、等しく紙面に書き残されているということ。書き手にそういう意識があったかどうかは定かでないが、それとは無関係にこういうことが成り立ってしまう日記というシステム、とりわけ日付という道具はすごいなと思う。

 そのすごさというのは、無意識的に「何を書くか」ではなく「どう書くか」を規定してくる形式にあるのであって、それはドラマトゥルギーと呼ぶにふさわしいものだと、私は考えている。そしてこの点において、日記のもつ<態度>あるいは<姿勢>は、演劇のもつべきそれと同じだと思うのだ。

 

 ーー自分は結婚して何をし、何を得たかといったら、ほとんど何もない。子供を産んで育ててきたことと、男というものについて、夫を通じて多少知ったぐらいのことで、そのほかには何もなかったという気がしてならない。

 ある中年女性が、カウンセラーにこう訴えたそうだ。なんだか、身体に力を失った女の顔が浮ぶ。そして、それに私も自分の似顔を感じる。私たちはと言ってもよいようにも感じる。これを、<劇>を失ったものの顔であるといってはならない。彼女は、自分の生を<劇>の目で見ているのである。<劇>の目でみて<何もない>と言っている。これは、<劇>の目で自分の生を見ることを強いられた者の訴えなのである。

              ーー「劇的なるものを疑う」太田省吾

 

 もちろん、彼女の生に「何もなかった」 はずはなく、「子どもを産んで育てたことと、男というものについて、夫を通じて多少知った」以外にも、何かあったはずだ。この、〈何か〉を〈何も〉としてしまう姿勢、態度のことを、太田は〈劇〉の目と言っている。この文章の続きで、太田は〈何か〉というのも結局のところ、〈信〉の問題になってしまう、つまり頭(脳みそ)で〈何か〉に価値を見ようとしているにすぎないことを指摘しているのだが、それでもやはり〈何も〉を〈何か〉という風に見たいのだと、決意をしたためている。

  私はこの太田の言葉を、自らの演劇の核=ドラマトゥルギーに据えたいと思っている。そして、だからこそ今回、日記のもつ〈形式〉=ドラマトゥルギーに可能性を見ているのだ。「午前中ボォー. 午後もボォー」を〈何か〉としてみつめる、日記の目、日付という制度、それらにいま〈信〉を置きたい。そこから望める人生を、じっと見つめてみたい。

 

次回公演に向けて 1. 痕跡をみつめる詩人の眼

散策者は、今月(3月)23日から25日にかけて、『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』という作品を上演します。

なぜ今、この作品を上演したいのか。なぜ今、この作品とともに、「痕跡」にこだわろうとしているのか。こういうことをきちんと書くには、当日パンフレットの紙面はおそらく狭すぎるので、本番まで時間と体力の許す限りで、長い紹介文を書いていけたらと思っています。もちろん、作品の内容に直接言及することはないし、読まなかったからといって上演がわからないというようなことは一切ありません。ただ、散策者のたどっているプロセスを記録し、それを多くの人と共有するために書きたいと思います。

 

「痕跡をみつめる詩人の眼」

 

 普段めったに詩を読まない私に、お気に入りの詩がひとつできた。ある穏やかな日の午後、図書館で何気なく手にとった一冊の詩集のなかに、それは書かれていた。詩人の名前は、尾形亀之助というらしい。

 

彼の居ない部屋

 

 

部屋には洋服がかかつてゐた

 

右肩をさげて

ぼたんをはづして

壁によりかかつていた

 

それは

行列の中の一人のやうなさびしさがあつた

そして

壁の中にとけこんでゆきさうな不安が隠れてゐた

 

私はいつも彼のかけてゐる椅子に坐ってお化けにとりまかれた

 

 

 ここで詩人は、部屋にかけられた洋服という、不在の「彼」の痕跡を見つめている。より正確には、部屋にかけられた洋服を、詩人の見つめる眼が、痕跡にしている。

 洋服を見つめる詩人の眼は、きっと品があって優しい眼であるような気がする。それはその眼が、行列の中に埋もれたり、壁の中にとけこんだりしそうなものを、大切に掬いとろうとする眼だからだ。痕跡に思いをはせる人の眼というのは、おそらくそういうものだ。その眼はたぶん、目の前にいる「彼」を見つめる眼よりも、品があって優しいだろうと思う。

 だが、ここでいう「品」だとか「優しさ」というのは一体何のことだろうか。

 次回公演のチラシの裏に、原作から抜粋した次の言葉が書かれている。

 

さまざまな痕跡がのこっている。

そこの人間がなにをして暮らし、なにを買って、誰とつきあい、なにを夢見ていたか。

そういうものがいたるところにあること。それを僕が追いかけること。

その行為にはきっと、品というものを忘れずにいなければならない。

 

 ここで、「品というものを忘れずにいなければならない」と言っているのは、おそらくどれほど痕跡を追いかけたとしても、その痕跡の主である存在そのものには到達しないようにしなければならない、というようなことだと思う。というのも、人間というものは、生(なま)の存在を目の前にすると、自分本来の品や優しさを保つことが難しくなるからだ。(欲求の対象としての)お金や恋人を引き合いに出すとわかりやすいだろう。

 現前はわたしたちの欲望を強く刺激する。「わたしは現前が好きだ。」「わたしは現前が欲しい。」このような欲望を肯定することは、いささか品を欠くとしても、全然悪いことではないと思う。だが、「わたしは現前にしか興味がない。」という態度をとり、痕跡をみつめる詩人の眼を完全に捨て去ってしまうとすれば、それは逆に生きづらさを生むように思える。今を生きるわたしにとって、「わたしは現前にしか興味がない。」という態度から距離を取り続けることはなかなかに難しい。欲望すれば割となんでも手に入るような時代だからだ。現前だけに興味を示しつづけても、それなりに充実した生活を送ることはできるだろう。

 それでもわたしが「品」や「優しさ」を保っていきたいのは、何より自分自身に即して生きていたいからだ。「品」や「優しさ」が絶対的に善だからとか、そういうことではない。ないよりもあった方が、自分が生きやすいだろうからだ。時流や社会というもののせいで、自分本来の品や優しさを損なってしまうのは勿体ない。現前にばかり振り回されず、ときには不在の誰か(幽霊、お化け)と戯れてみる。部屋にかけられた洋服を、ただのモノとしてではなく、「彼」の痕跡として見つめてみる。そういう慎ましい処世術を忘れないために、私は次回上演を通じて、自分の中の、痕跡をみつめる詩人の眼を確かめたい。

 

散策者 中尾