〈出会い〉の演劇を目指して

 今年の春、およそ2ヶ月間かけて、「散策者発表会 vol.2」というのをやっていました。「発表会」とはいったものの、実際には全8回のワークショップのようなもので、内容といえば太田省吾の戯曲を用いつつ、演技というものをめぐって、散漫な思考をはたらかせてみたり、実際に体を動かして試してみたりするといったものでした。

 散策者では、この「発表会」と通常の公演とを繰り返す活動形式を取っているのですが、スケジュールの問題を省いて言えば、主に次のような効果があるなと実感しています。それは、現場的な思考とエッセイ的思考のバランスが程よくとれることです。上演のための活動ばかりを反復していると、どうしても目下の技術的問題に囚われがちになるところを、発表会を挟むことで風を通すようなイメージです。自分たちの活動を、既存の他の方法論(vol.1は新聞家、vol.2は太田省吾)と照らして相対化するとともに、盗めるものは盗むといった感じで。

 そのため、ここのところ公にしてきた文章は、エッセイとして(そこそこ)まとまってはいるものの、「生かしづらい」ものが多かったなと感じています。そこで、今ちょうど、次回公演の稽古が立ち上がってきたなというところでもあるので、一度「使えそうな」方法をまとめておこうということでこの文章を書いています。なので、実際に創作に携わっている人向けな内容ではありますが、よければこれを読んで次回公演に興味をもっていただけたらと。

 

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〈出会い〉の演劇を目指して

 

The goal is to find a meeting between the text and the actor.

Don’t illustrate the play, but meet it.

 

                                              —Jerzy Grotowski

 

1.座組内の領分のこと

 前回の発表会では、太田省吾から5つの作品を選び、声に出して読んできました。戯曲にかぎらず、テキストを上演するというとき、常に問題になるのは、テキストを「どのように」扱うかということです。ただ、ここで「どのように」に対するさしあたりの回答として、「なるべく忠実に」とか「ひどく冒涜的に」とかいった仕方で答えたところで、現場では大して役に立つことはありません。現場において、第一に必要なのは、そこにいる人々の仕事の領分を明確にすること、そして次に考えるべきは、観客の存在です。

 したがって、テキストの扱い方について言えば、テキストー俳優の関係、それからテキストー観客の関係を起点に考えていく必要があると思われるのです。そのため、以下ではそれぞれについて述べていきますが、その前に散策者の稽古場における領分について一言。

 散策者では、作家と演出家を別の人間が担っているため、主にそれぞれ作家、演出家、俳優という役割の人間が、稽古場に集まります。作家はその名の通り、上演されるテキストを書く人間ですが、どのように上演するかという都合は一切考慮せず書きます。さらに言えば、現在作家を担当している新居進之介は、ふだん小説を主に執筆していることもあり、戯曲の体裁を取らない、より書き言葉然とした文章を提出してきます。第二回公演『思想も哲学も過去も未来もない君へ。』のテキストは、ほとんど完全に日記小説といっていいようなもので、ト書きも台詞らしい台詞も書かれていませんでした。作家の仕事は、それ自体として構築されたテキストを編むこと、基本的にはそれだけです。そして、稽古場では、俳優の口から発される言葉をきいて、テキストをその都度修正したり、言葉の響き方について演出家と相談したりというのが主な仕事になります。

 俳優は、そのテキストと実際の環境に対し、つねに過不足なく反応し続けることが仕事です。そして、この「反応」という厄介な現象を起こすために、場やテキストを構成するのが演出家です。俳優と演出家の共同作業は、どちらも演技をつくる仕事なので、はっきりとした領分が規定できるものではないですが、ここでは少なくともこうではないという点だけ述べようと思います。

 まず俳優について言えば、どのように見せるのがよいか、どうすればもっと面白く見せられるか、ということを考えて動くことはあり得ません。俳優の仕事は、テキストや相手役など周囲の環境との関係に没入することであって、観客を喜ばそうと余計な邪念をはたらかせることではありません。実際に客先に座る(であろう)観客のことを意識するのは、演出家の仕事です。どんな俳優も、心のうちに「演出家」を宿していますが、まずそれを徹底的に排さなければ稽古ははじまりません。

 そして演出家は、俳優に直接的な要求をすることをなるべく避けなければいけません。ここはこう動いてほしいと言ってみたり、はたまた代わりにやってみせたりするのは、領分の侵犯です。要求としては、せいぜい「こうしないでほしい」に留まるべきで、すべてを思惑通りに組み立ててしまえば、生の〈出来事〉として提示されるべき舞台が、「ウェルメイド」なものでしかなくなるでしょう。たとえるなら、遊びのルールだけ作って、あとは俳優が実際に遊んでいるところを見守り、ルールに不備があればその都度直す、くらいのつもりでいられると最適なのかなと思っています。(まだその境地には全然達していませんが。)

 領分について詳しく書こうとすると、あまりに文字数が膨大になるので、ここでは稽古場内の主な仕事にかかわるものに絞りましたが、実際にはもっと複雑で多様です。これについては、次回公演が終わったあたりに、整理のため、まとまった文章を書けると良いなと思っています。

 

2. テキストと俳優

 ここまで大雑把に、それぞれの領分について書きました。では俳優の領分において、俳優がテキストとかかわるとは一体どういうことか。それについて、いま考えていることを整理していこうと思います。

 少なくとも演劇においては、演技はテキストと切っても切れないような〈関係〉にありますが、ここでいうところの〈関係〉とは一体何か(いやむしろ、何「でない」か)。このことを考えるために、かなり回り道にはなりますが、「演技」と一口に言われるものを、一度gesture(身振り)、movement(身動き)、action(行動)に分けて考えるところからはじめてみたいと思います。

 ポーランドの演出家であるイェジュイ・グロトフスキ(1933-99)は、自らの望む演技について、gestureでもmovementでもなく、physical action(身体的行動)であると語っています。(これは、多くをスタニスラフスキーから受け継いだものでもあります。)

 まず、gestureとは、いわゆるボディランゲージのジェスチャー同様、「伝える」演技です。俳優が、自らの演じる役の置かれている状況などを、身振りをもって観客に伝達するというものです。gesture の演技というと、真っ先に思い浮かぶのは、これまた20世紀の主要な演出家ベルトルト・ブレヒトですが、グロトフスキは彼の主宰していたベルリナー・アンサンブルの舞台を絶賛していながらも、演技論についてはあまり間に受けていないような印象があります。というのも、gesture演技では、俳優と観客の間にコミュニケーションが起こることが前提とされており、このあたりがグロトフスキの理想と真逆だったからでしょう。グロトフスキの舞台においては、俳優と観客の距離は非常に近く、第四の壁は排されているものの、観客は俳優と交流するというより、異様な存在としての俳優に立ち会うという感じです。冒頭の引用にみられるように、グロトフスキは、俳優が観客に「伝える」のではなく、俳優と観客が「出会う」ことを目指した人だったのです。彼は、演劇を「嘘」のイリュージョンとするよりも、むしろ真実味のある〈出来事〉を現前させる方法として考えていたような感じがあります。(その点で、スタニスラフスキー同様、リアリストだったと言えるでしょう。)

 私もいまは、グロトフスキ同様、虚構としての演劇のなかで、普遍的に信じられるような〈出来事〉を現出させることに興味があります。そのため散策者では、いかにもgesture的な演技はさしあたり全て排するようにしています。もちろん、gesture的な演技に可能性を感じないわけではないですが、下手にいいとこ取りを狙って半端に陥るよりは、潔く捨てた方がいいということです。

 次に、movementについて。以前わたしが書いた文章のなかでは、ムーブメントという言葉を肯定的な意味合いで用いましたが、グロトフスキが言うところのmovement というのは全くの別概念で、否定的な意味合いで言われています。gestureにおいては、俳優が観客に「伝えようとする」という、悪い意味での能動性が指摘されましたが、movementは逆に、結果として何も伝わらないという、客観性(構造)のなさが問題にされます。movement とは、その語の通り、たんなる「動き」ということで、それ以上でもそれ以下でもないものです。観客に何ものももたらさない、言い換えれば、「不足のある」「強度の低い」演技です。散策者にとっても、第二回公演で直面せざるを得なかった、演技の「不足」をどう乗り越えるか、これが目下の大きな課題になっています。

 では、これらと対照的に肯定的なものとして述べられるphysical actionとは一体何か。これは説明するにはなかなか厄介なものなのですが、一つ言えるのは、舞台上にいる俳優がつねに行動の指針をもって演じるということです。つまり、flowやscoreといったものがしっかりと用意されているということ。台詞がないときにも、十分に不足なく舞台上に居られるということが重視されるわけです。たとえば、スタニスラフスキーは、physical actionのなっていない俳優に対して、「誰に対して」、「どういう目的で」、「自分はどういう立場として」その台詞を言っているのか、あるいはその行動をするのか、ということを明確にするよう、問い詰めていたようです。

  ただ、これは100年近く前の演技論なので、今すべてを真に受けるには、少しアップデートする必要がありそうだという予感があります。たしかにこの方法は、社会的なドラマを自然主義的な手法で上演する際には、かなり有効です。しかし、〈社会〉を生きる存在としてではない仕方で、俳優を舞台上に立たせようと思うとき、俳優が「何」あるいは「誰」であるかということは、どうしても不透明であるしかないのです。そのため、「誰に対して」言っているのかという問い詰めが、方法としてもうまく機能してこないのです。(わたしは、ここのところ流行りだと言われている「モノローグ演劇」が、演技においてやや行き詰まっているように感じられるのは、おそらくこの問題が根っこにあるからではないかと、憶測しています。)

 

3. 出会いの対象ではなく、その様態を考える

ここでは、上記の課題も引き継ぎながら、〈出会い〉という概念をキーワードに、俳優の様態ひいてはテキストとのかかわりについてようやく触れたいと思います。

 〈出会い〉というものはまず、どうあがいても偶然性の賜物です。始まりから終わりまで、プロットがすでに規定されている、いわば必然性のドラマの中で、〈出会い〉は生じ得るのでしょうか。このことについて述べた、太田省吾の言葉を見てみます。

 

  ところで、われわれの生には数知れぬ偶然性が働いていて、それはわれわれ
の存在の基本を形成している。(無根拠性、生の時間の長くない有限性とと
もに)
その働き、力は無視する以外に手はないのだろうか。
それは、表現において(殊に演劇表現において)<社会>を生きる者しか扱
えないのかという問いへ通じる問いである。

 

「〈社会〉を生きる者しか扱えないのか」に対する太田なりの応答が、かの有名な沈黙劇シリーズでは特に徹底されたのだと思われます。つまり、社会性の仮面を剥いだ人間として、俳優が舞台上に立ち、そうすることで偶然そこに立ち現れるものである、〈出来事〉の契機を見出そうとしたのだと思うのです。『水の駅』で俳優らが目を合わす、あるいは手で触れる、その瞬間すべてが、ひとつひとつ奇跡的な〈出会い〉のように感じられることは、舞台上でも偶然の出来事が立ち現れうることの証左といえるでしょう。

 この太田の仕事には、〈出会い〉の演劇を考えるにあたって、とても重要な示唆が含まれているように思えます。それは、「何と」出会うかということではなく、むしろ「何として」出会うかということの方が問題であるということです。そのようにとらえ直せば、〈出会い〉という概念は、演技態という具体的かつ実践的な問題に置き換わります。

 「何として」というときに問題になるのは、「何」の部分ではなく、「として」の方です。それは言い換えれば、キャラクター(社会的人格)として捉えることが不可能な様態、社会性の仮面を剥いだ先の様態のことです。そして、この様態を生み出す方法論として、physical actionを再び登場させることができるのではないかと考えています。それは、「何」とか「誰」とかいったものを空っぽにしたまま演じるための方法論になるわけですが、そうなってくるとphysical actionの構成要素として残るのは、行動のscoreのみになります。そしてこのscoreは、上演されるテキストから構成されたものであってはなりません。なぜなら、ドラマに登場する人物はあくまで「何か」あるいは「誰か」として描かれるしかないからです。

 俳優はテキストを描くのではなく、テキストと出会わなければなりません。そのためには、出会うための様態が必要で、それにはキャラクターに依存しない行動様式(スコア)が要ります。そう考えると、もとのテキストから演技を構築することはほぼ不可能なことになります。さらに言えば、散策者が現在扱っているテキストは、ほとんど小説のような形式で書かれているため、テキストをどうほじくり返しても、俳優の行動は決まっていかないのです。わたしは今、このことを試みそれ自体の矛盾としてではなく、そういうものとして受け入れてしまおうという立場にあります。極端なことを言えば、仮に近代の戯曲を扱ったとしても、戯曲をほじくり返してそこから演技をつくるというやり方はもはや通用しないのではないかとさえ思っています。

 それでは一体どうするか。現在とっている作戦は、あえて一度、上演テキストと俳優との関係を断ち切って、スコアを別で用意するというやり方です。つまり、演出家がもとのテキストと別に出来事のスクリプト(構成ノートと呼んでいます)を作ってしまって、それをまずはそのまま実行することを通して、演技を立ち上げていくというやり方です。もちろんこれだけでは、味も素っ気もない、不足だらけの演技ですが、ここから先は俳優がその不足分を埋めていくという作業です。したがって、構成ノートを書くまでが演出家の領分、それをベースに動きつつ過不足のない演技を構築していくのが俳優の領分ということになります。

 実はこの構成ノートという発想は、グロトフスキ、太田省吾の両名ともが共通してもっていたもので、ほとんどわたしは知らないのですが、もしかしたらタデウシュ・カントール(のイメージ・スクリプト)もその内に入るかもしれません。彼らが積み上げてきたものを堂々と盗用しようという魂胆です。

 構成ノートの作り方についても述べたいところではあるのですが、実際にまだ着手しはじめたばかりで、これから不測の事態に陥ることも考えられるので、これは公演後に書けたら書こうかと思います。

 

4. 〈出会い〉の演劇を目指して

 ここまで書いてやっと、冒頭の “Don’t illustrate the play, but meet it.” という言葉についてきちんと説明することができます。俳優が上演テキストから直接には演技を構築しないという方法は、ともすればテキストを蔑ろにしていると誤解されるかもしれませんが、そうではありません。

 上演されるテキストは、(特に散策者においては)「書き言葉」として完成されていることが第一に求められています。そのため、紙媒体で読むのとは別の価値を提示することが、舞台には当然要求されるでしょう。その価値とは何か。この問いに対するひとつの答えが〈出会い〉なのではないかと考えています。

 第一に、俳優がテキストに出会うこと。俳優はすでに、テキストの内容を「伝える」ことから解放されています。俳優の領分に、テキストを「解釈」したり「伝達」したりという仕事は一切入ってきません。(観客にテキストの言葉が、正確に、記号として伝達されるようにするのは、演出家の仕事です。)そうなると、俳優の仕事は、構成ノートを指針に、〈社会的〉でない存在として舞台上に立ち、言葉の降りてくる瞬間に立ち会いつづけることです。このような言い回しが神秘主義めいていると感じられるなら、次のように言っても構いません。中動態の状態に身をおいて、言葉を操るのでなく、むしろ言葉に操られるようにして行動することです。

 第二に、そのような状態の俳優に観客が出くわすこと。鑑賞というよりもむしろ、目撃といった方がふさわしいような経験をすること。観客が舞台上で現におこっていることを、ある種の偶然性の賜物であると信じられる契機がおこれば、それだけで芸術というのは価値があるとわたしは思います。このような半ば奇跡的な体験を目指すためにも、重要になってくるのが演出家の仕事です。俳優がテキストをもとに演じるのでない分、「その言葉が今発される」ということが信に値するには、上手い構成が不可欠です。

 グロトフスキの「演劇実験室」には、ルイチャラド・チェスラクという看板俳優がおり、『不屈の王子』という作品は特に有名です。タイトルにもあらわれているように、この作品は敵陣に囚われた敬虔なクリスチャンの王子が、拷問によって蹂躙されながらも意志を貫徹し、殉教するという物語です。この作品において、チェスラクは王子役を演じたのですが、彼は決してそのような王子像を「描いた」わけではありませんでした。そうではなく、彼は思春期時代の性愛体験の記憶にもとづいて演技を構成したというのです。このときのことについて、グロトフスキは、彼の演技は「淫靡な聖人」というイメージでもって、戯曲と舞台のあいだに橋を架けてくれたと語っています。

 実際、『不屈の王子』の上演は映像や舞台写真で見ても、まさに〈出来事〉としての様相を強く感じる作品になっています。もちろん、ここに至るまでにはかなりの年月と、劇団内の経験の共有が必要不可欠でしょう。わたしたちは、下手に背伸びすることはせず、日々着実に稽古をすすめていくことで、すこしでも舞台上で〈出会い〉の生じうる契機を探っていけたらというところです。そしてその上演に、観客という存在が立ち会うことができたら、なにか現代社会に光を照らすようなものになるような気がしています。